retozar

帰りの電車。

いつものように満員の中、Paco de LuciaをBGMにハードボイルドな世界に浸る。

が、すぐ目の前で何かがしきりに動いている気配がして落ち着かない。ふと目を上げると、一組の男女がいちゃついていた。

中学生のようにも見えるし、高校生のようにも見える。胸には、大きなSの字が中央に刺繍された校章が見えた。左右にアザミのようなものが伸びていて、すぐしたに学校名らしきものが刺繍されていたが、小さすぎて読み取れない。

再びハードボイルドな世界に戻るも、満員電車内での至近距離のため、そのせわしい動きを視界からはずしたくても、どうしようもなかった。

男は首筋あたりに手をおいていたかと思うと、髪をなで、女を抱き寄せ、戻して、すぐまた肩に手を置く。何かを話すために肩から手をどけても、またすぐに首筋に手が行き、また髪をなで・・・それを延々と繰り返していた。

女の方は男の肩の辺りに顔をうずめたり、こめかみや頬のあたりに唇をあて、離れ、身振り手振りで話をし、また顔をうずめ、首筋に唇をあて・・・。

もう、そのいちゃつき方は、せわしいことこの上ないのだが、よくよく観察していると、それはスペイン風ないちゃつき方に似ていた(仮にいちゃつき方にお国柄があるとしたらの話だが・・・)。おいらが3年スペインにいてもマスターというか、マネできなかったいちゃつき方だ。

スペインではバルやらディスコテカやら、公園やら、自分の家やら、フィエスタやらで、ほぼ毎日のように眺めていた景色だ。

当時は、「スペインだねぇ〜」と羨望とも諦観ともつかない気分にさせられたものだが、なぜか今、目の前で繰り広げられている、同様の景色には、羨望も諦観もなく、まったく別の感情・・・不快、醜悪、軽蔑、さもしさといった言葉しか思い浮かばなかった。

前々から不思議に思っていたのだが、好きあっている男と女がいれば、いちゃつくのは至極当然な気がするのだが、なぜ日本でそれをみると、悪いイメージしか湧き出てこないのだろう?当然、屋内の話ではなく、屋外の話だ。

スペインでは、上にも書いた通り、ほぼ毎日みていたわけだし、友人などがパレハで遊びにきても、目の前でコーヒーすすりながら、当たり前のようにいちゃつくし、それにたいして何か悪い感情が沸き起こるなんてことは一度足りともなかった。


本に集中できそうもなかったので、あれこれ考えてみることにした。

理由となっていそうな項目をあげてみる。


スペインはいちゃつきパレハが多すぎるため、感覚が麻痺してくるが、日本では、昔よりは増えたとはいえ、まだまばらで、目立つため。たとえるなら、街中でたった一人が歩きタバコをしているのを見かけた時と街中が歩きタバコをしている人ばかりというのを見たときという感じの差だろうか・・・。

日本人の顔が童顔だから、ママゴトのように見えてしまい、どうしてもかっこ悪く見えてしまうから。なお、スペインだと、もちろん人にもよるが+5〜7歳くらい上に見えるので、仮にいちゃついているのが日本の中学生くらいだったとしても、高校生くらいに見えるし、高校生なら大学生くらいに見える。ただ、これは年輩の場合になってくると、理由になりそうもない・・・。

年齢どうこうじゃなくって、外人はいちゃつくものだというイメージで、逆に、日本人は詫び寂びの国だから、外では睦言を交わさないもんだというイメージが頭にこびりついてしまっているから。アメリカ映画のラストと武士映画のラストの違いにたとえられるか?

絵画の好み同様、日本人がいちゃついているのが純粋に美しくないから。これは横暴な気がするが、好き嫌いは感情だから、一番しっくりくるといえば来る。ピーマン嫌い!と同じ。


実際の状況をシミュレートして、頭に浮かんでくるイメージを比較してみる。


■日本人パレハ。場所はスペイン。

別になんともない。郷に入りては郷の従えの精神。

そういえば、かつて彼女とスペインにいたとき、周りの友人に「おまえたちは本当に付き合ってるのか?ここでいちゃついてみろ〜!」といわれたことがある。彼からしたら、まったくいちゃつかないうちら二人が、不思議でしょうがなかったらしい。


■スペイン人パレハ。場所は日本。

別になんともない。

郷に入りては〜の精神でいちゃついてなくっても、「珍しいスペイン人だな〜」と思う程度で嫌悪感は起こらない。もしいちゃついてても、「スペイン人だしね・・・」ということで、同様になんとも思わない。たぶん、お国柄というものを頭が勝手に理解してしまうのだろう。


■スペイン人と日本人のパレハ。場所はスペイン。

これもまったく問題ない。

片方が日本人だが、すでに両方スペイン人のように認識してしまうようだ。ただ、ついて3日たたない日本人が、同様の状況だったら「なにしに来たんだ?」と思ってしまいそう。そんなのは人の勝手であるが・・・。


■スペイン人と日本人のパレハ。場所は日本。

ほほう・・・これは面白い。

まず、二人の様子をみて、相手の知り合った状況を勝手に推測した上で、○か×かを決めようとしている。スペインで知り合って日本に来ていそうな場合はなんともなし。日本で知り合った場合で、そのスペイン人が日本の文化を知りたくて来ていそうなら×。そうじゃなければ○となった。

「日本人パレハ。場所はスペイン。」のところで書いたとおり、いちゃつかないとパレハじゃないと考えているのなら、いちゃつかないといけないわけだから。

ただ、状況を判断している時点で、なんかがおかしい。でてくる感情も「そうやって欲しい」程度の話で、全体でみてしまうと、なんとも思わないという方になりそうだ。


・・・とりあえず、各シチュエーションによるおいらの感じ方はわかったが・・・なぜ、日本人だとダメなのか・・・という理由としては、イマイチな気がする。

やはり、感情の部分を理性で理解しようとしても無駄なのだろう。

というか、これもあれか・・・年齢ってやつなのか・・・。

トランクス見せて歩けるか、歩けないか・・・その程度の差なのかもしれない。

おいらとしては、自分はしないが、別に他人がいちゃついてても、まったくなんとも思わないようになりたいのだが、ゾロ目になるまでに頭にこびりついた、その手のイメージはそう簡単に払拭できないんだろう。

どうしても、みっともないというか、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。痛々しいというか・・・。


あ!重要な要素を考え忘れてた・・・日本人のもつ「恥」の概念!!

そうだ、「恥」だ、「恥」!


でも、もう面倒くさいからどうでもいいや・・・。


追記
タイトルのretozar。スペインにいる間、いちども聞いたことがない。coquetearはあるが・・・。今回の日記にかいた「いちゃつく」というのは、このretozarでいいんだろうか・・・?